New discovery my top10 wine in 2013

2013年、新たに出会ったワインはざっと1500種。プラコップにちょっとだけ注がれたものからボトル1本開けてしまったものまであるので、おそらくフルボトル換算でいけば150本分程度、ということになるだろうか。そのほかすでに出会ったもののお気に入りの再飲(たとえばニュージーランドはマルボロのホワイトヘヴンや、シャトー・ダングレスなどは何本開けただろうか…)や、ビール、日本酒、焼酎、ホッピーにハードリカーなどなど。今年も丈夫な肝臓と腎臓を分けてくれた親には感謝(微笑)。
さて、今年のトップ10ワイン。昨年はデイリーレンジ(3000円以下)の心地よいワインという基準だったが、2013年は、まず価格の上限を取っ払った。とはいえあくまでも「今の自分を幸せにしてくれる」範囲でのコストパフォーマンスは重視。今回2万円代のものもあるが、あまり芸術性だとかは重視していない。基準は、「そのワインで、自分の時間、集った人が幸せになること。そして、生産者やその土地に想いを馳せて、ちょっぴり感動できる。そして、もう一度飲みたいと思える余韻と財布」。
今年のトップ10ワインのタイトルは、「新発見」。日本語としては「まだ未定」的な、発見なんだから「新」はおかしいだろう、というところなのだけれど、「新しい気づきを与えてくれたワイン」という気持ちを込めた。それは見知らぬ国やエリアだったり、ワインの楽しみ方だったり、組み合わせだったり、それぞれ今回選出したワインには幸せな発見と、今までの自分のワインの常識に対する強烈で優しい方向転換もあった。
それは愛好家、メディアという目線に加えて、1月~6月まで南青山の金曜限定ワインバー店長という経験と、7月からの白金高輪14のワイン会運営という2つの体験がもたらしたものだっただろう。人が幸せになって、笑顔で、でもときに神妙な語り口で生産者やその国の文化を語る。ワインにお金を払うっていうのはどういうことなのか、そのワインで幸せになることってなんなのだろうか、という気づきと発見があった1年だったように思う。
そこで、あえて、ワインにとって重要なヴィンテージの違い、という評価軸ははずしてみた。例えば素晴らしきベル エポック06、ウニコ69などの作品も、はずすことにした。最高のワイン10ではなく、僕にとっての新しい気づきをさせてくれた、今年出会ったワイン10ということになる。必然的に既存の著名産地よりもエキゾチックな産地が多くなるが、これも、ある意味、僕と2013年のワインとの関係を表したものといえるだろう。とここまでワイン10と書いたが、どうしても絞り切れず、シャンパーニュ/スパークリングは別に5本を選出(別記事にて)。ここではスティルワイン10本を選出した。
自分を振り返るとともに、ご覧いただいた皆さんにもぜひ試していただきたい10本です。
(記載順に特に意図はなく順位というわけではありません)


ハート&ハンズ
バレル・リザーブ ピノ・ノワール 2010
》ニューヨーク州ワインの洗礼でありその深みにはまるための通過儀礼的、いや門番的アイテム。ピノ・ノワールの常識を疑いたくなる凄みを纏った静かなるヴァイオレンス。美しさとその中で燃え盛る欲望がもたらす心をかき乱す余韻。アメリカ文学、ポール・サイモンのダークサイドなリリックとサウンドに、ブルース・スプリングスティーンのリヴァーが聞こえながらも、どこまでもジョージ・ウィンストンのピアノの調べ。混乱が快感に変わる。

シルヴァン・ロワシェ
ムルソー 08
》ブルゴーニュのブライトスター。ロックミュージックで言えばowl cityの儚い、爽やかさ。内省と社交性、頑固と寛容、その相反する要素が、静かに優しく溶け込んだ、ふくよかで後味がきれいで、どこかキラキラ感があって、それでもしっかり芯がある。濃すぎるムルソー、重すぎるムルソーから、ローファイでシンプルなムルソーも、悪くない。美男子ムルソー。

ドメーヌ・キンツレー
リースリング グラン・クリュ ガイツベルグ 09
》アルザスの土地の複雑さを改めて思い知らせれた静かなる刺客。震えるぐらいにピュア。ドライではなくクリーン。柔らかい柔らかいピアノ線。畑のほとんどが斜面で、手作りという選択肢しかない状況の中、若木古木、異なる土壌などのミクスチャーなどありったけの「こうあるべき」を注ぎ込む。そこから生まれる、アルザスのリースリングという誇りと凄みと、自然さ。作り手の優しいルックスからは想像できない、凛。

フレッド・マイヤー
リースリング テラッセン 2011
》オーストリアの首都ウィーンから西北西へ70km。ランゲンロイスという街。そこから生まれるリースリングは決して素朴で素直なものではなく、エレガント。しかも、骨太。ジョージ・クルーニーがボタン2つ外して大ぶりなグラスで煽る。そして女性にウィンク。チャーミングさと男臭さ、キラキラなふくよかさと、男らしいスーツが同居するモダンで社交的なリースリング。キンツレーとは真逆の世界観にリースリングの凄みを感じる。夜、都会で。

KEO
アフロディーテ
》キプロスの地品種ジニステリ。初めての出会いはまさに女神との謁見。しかしこの女神は、薄着。でも清潔。太陽と青い空と青い地中海、そして白い壁と白い雲。素朴ではつらつ。しかし女神の高潔と純潔。明るく静かな余韻がどこまでも爽やかに広がる。しばらくして感じるのは、素朴で高潔だからこそにじみ出る官能。平たい言葉で言えば十分に「エロい」。熱い太陽がもたらしたエネルギーが爽やかな青と白の中に確かに、躍動している。ジャケットも秀逸。

ドメーヌTourelles
ロゼ 12
》レバノンの伝統的ワイナリーのロゼ。シラー、カベルネ・ソーヴィニヨン、テンプラニーニーリョ、サンソー。レバノンワインについては当コラムでも紹介したが、やはりこのワインも口当たりの優しさと深みと優しい幸せなボリューム感がある。ほのかな酸味がドライというよりも、自然な柑橘系のフレッシュさをもたらしてくれる。華やかな白いテーブルクロスではなく、家族や仲間、親友、旧友との休日の午後に。

パスカル・トソ
マルベック 10
》アルゼンチン、メンドーサ。ここから生まれるマルベックは、フランス南西部のそれとは異なる世界。そして、主要赤ワイン品種に寄り添いながらも何かが違う。違う何かは、やはりアンデスの空気と日差しと雪解けがもたらすグリーンでクリーンでほっこりする世界なのか。飲み疲れをしない、アタックはきつすぎない、でも、グラス一杯ごとに確かな重厚感がある。何本も飲めない、と言いながら2本飲んでしまう、魔力。メンドーサ、今年改めて恋に落ちたテロワール。

デンビーズ・ワイン・エステート
ローズヒル ロゼ 2010
》ワインの常識で言えば英国はマーケットであり生産地ではない。その常識を軽やかにあざ笑うかのような、見事な売れ線ワイン。なるほど目利き、ワイン商の国、英国だからこそ到達した、ロゼのメインストリーム。批判しようにも批判のしっぽをつかませない、UKロックよりもUKポップスの系譜。問答無用にテイクザットであり、ワンダイレクション。つまらない、も確信犯。そのポップスの凄みを感じたら、抜けられない。可愛らしく、飲みやすく、華やかで、嫌なところが見つからない。ロゼってこういうことだよね?はい、その通りです。

ジェラール・ベルトラン
カリニャン ヴィエイユヴィーニュ
》良く知った、良く普段から飲むラングドックの人気ワイナリー。キャラクターも良くわかっているし、もう、ここにそれほどの発見があるとは思わなかったのだが…カリニャン100、しかも古木。作る意味があるとは全く思えないワインが…化けた。カリニャン、ごめんなさい。ラングドックの古木、ふーん←ごめんなさい。大手の生産者だからこその閃きなのか。ヴィエイユヴィーニュの良さをカジュアルに、気軽に楽しめるという、提案。ラングドック、カリニャン、古木。この組み合わせ。痛快、にんまり。

ファヴィア エリクソン ワイングローワーズ
カベルネ・ソーヴィニヨン
》今年、かなりのワインを飲みながら、もしかしたらもっともカベルネ・ソーヴィニヨンを飲まなかった1年だったかもしれない。加齢なのか体力なのか…知らず知らずに避けていたのかもしれないが、そんな1年に、ちょっと待ちなさい、と肩を叩いてくれたのがナパ・ヴァレーだったとは…。ミネラル感、美しい酸が溶け込み、へヴィーだけれども気分までへヴィーにさせない。明るくもない暗くもない、飲んだ瞬間は、何も感じない。が、胃袋まで落ちた後に全身に訪れる、「俺、今、ワインを飲んでいる!」という実感。へヴィーだけれど浮き立つ。ロックミュージック必須。レッチリのミドルグルーヴと、REMの乾いたせつなさ。交互に聞きながら目を閉じて、もう1杯。もう2杯。


Beautiful naiveness wine of Lebanon

白金高輪14で開催している「ワインで世界旅行」シリーズ。12月1日の日曜日の午後は、レバノンワイン。中近東・北アフリカ編、地中海ロゼ会などでご紹介し、参加者のみなさんから好評だったので、今回は、そのレバノンに絞って、じっくり、ゆっくり、楽しく味わっていただく会を開いた。

ゲストにはレバノン出身で、レバノンワイン、オリーブオイルを扱うヴァンドリ-ヴを運営するスヘイルさんご家族をお招きした。
http://www.vinsdolive.com/ja/
現地のいろいろな情報などもお聞きしながら、ワインはもちろんレバノンのオリーブオイル、スヘイルさん手作りのレバノンのソウルフード、ひよこ豆のペースト「フムス」も登場。レバノンのテーブルの素朴で美しく、そして温かい風景が広がった。

そう、レバノンワインの良さも、素朴であるけれど美しく、どこか温かみのある世界。アタックは優しく、派手さはないけれど、喉をゆるやかにあたたかく通り過ぎると、静かに、でもうすっぺらくなく、じわじわと、むしろアタックにはなかった芯の強さのある豊かな果実味で、全身を体の中から熱くしてくれる感覚。それでも、やはりそこにあるのは自然の風景、綿のテーブルクロスに、飾らないお皿。心を洗ってくれるのは鮮烈で凛とした冷水ではなく、とろとろとした湯あたりの温泉。秋の露天風呂。優しく包まれながらじわじわと心が温まっていく…

レバノンの古代からの歴史や自然を考えれば納得がいくのだけれど、僕らの常識が届く近現代史だけに限って言えば、内戦と国際政治力学の中に揺れる紛争の中心地。それでも、人の営みがどうであろうと、旧約聖書の時代からワインがはぐくまれていたこの場所は、どこまでも、あくまでも、優しく、素朴で、温かい。白はどこまでも青い空と緑の杉の風景に爽やかにトリップさせてくれる。赤は、どんなに苛烈な時代でも、家族の笑顔が小さなテーブルに広がるだろう。ロゼがあればなんの駆け引きもなく、恋と愛とやんちゃなあの頃と幸せな老いを語れる。心が温かく優しく、そしていつのまにかすべてを忘れて語り合える。国際品種だろうと地品種だろうと、それは変わらない。

スヘイルさんが扱っているレバノンワインは、ギミックもトレンドも野心もマーケットも関係ない。どんな時代でも変わらない、という素晴らしさ。幸せな熱い涙が少しだけこぼれる。時代遅れかもしれないけれど、いや、これこそが、今、僕が求めているワインの一つなのだ。


Kaleici, full moon eve

その土曜日は、満月前夜だった。午後の散策を終え、16時45分、メンバーと、カレイチの待ち合わせの定番スポット、カレカプス駅近くの時計台の前で待ち合わせる。地元の人たちもここのベンチやフェンスに腰掛け10分、15分と会話をすると(もちろん内容は分からない)、連れだってどこかへ向かう。渋谷のハチ公前の土曜日、というほどの密集ではないけれど、心地よい雑踏。太極旗の小旗をもったツアーガイドに引き連れられ、15人ぐらいの韓国人の観光客がやってくる。土曜日の間、日本人とは3人ほどすれ違った。「30分後にここで集合です」かろうじて理解できる程度の韓国語。なぜアンタルヤを選んだのか、慌ただしいツアーのようだけれど、彼らはここでどんな思い出を持ち帰るのだろう。メンバーと落ち合って、マーカス×ジョージなマネジャー(前のブログ参照)のポートサイドレストランに向かう。港に降りた17時30分は、もう、みちる寸前の月が濃いブルーに浮かぶ。

その店でたっぷりの野菜、素朴なシーフードを、地元のビールとワインで愉快な時間を過ごす。オフシーズンのリゾート地、次第に地中海からの風が冷えてくると、港に面したガラスが閉じられ、波音や港の音から、自分たちのカトラリーの音と会話とワインが注がれる音に変わってくる。豊かな食、豊かな風景は、豊かな時間と笑顔をくれる。愚痴など、そこにはない。旅の疲れがむしろ心地よい。

20時を過ぎて土曜のカレイチに戻る。午後の日差しと日陰と優しい空気から一変、いぶしたゴールドのような灯りと、若者たちの陽気な歌声と、マイナー調のロックサウンドがバーから漏れてくる。でも喧噪ではない。歌舞伎町や渋谷や新橋ではない。不思議な浮遊感。石畳を歩く自分たちの足音(お酒で乱れている)はしっかり、聞こえるが、その音もどこか浮遊している。心地よい室内楽が街にじんわりと滲んでいる感覚だろうか。
1軒目は、普段では選ばないであろう店。露店に毛が生えたような中庭の店。ラク(トルコのブランデー)が止まらない。やはりその地の酒はその地の空気の中がいい。会話は酔っ払いの特徴、話題がループし始める。エレクトロロックのトラックのように、それは心地よい。メンバーの一人がiPhoneをいじっていると、店の3代目(と言っていたような気がする)の若者が笑顔で一言。
「ここwi-fi繋がりますよ!」
土の中庭、露店の中庭。ホテルよりもサクサクと動くwi-fi。なんとなくのリアルなアンタルヤの暮らし。

フットボールの話とアメリカとイギリスの音楽の話は、どこにいっても共通言語だ。お店の兄ちゃんとも、客の兄ちゃんとも仲良くなれる。姉ちゃんと仲良くなるためにはもう少し話題が必要かもしれないけれど、エフェスとラクで酔っ払ったループ野郎が求めているのは地元に兄ちゃんとの熱い語りだったりする。それも旅の入り口。3軒目は階段を少し降りたところに中庭が広がる店。ここでもラクを煽る。時計を見ることもなく、満月前夜の月を見上げながら、カレカプス駅の近くまで再び坂を上がる。いぶしたゴールドの街。トルコで三日月を見たかったが、満月もまた美しい。

翌日の夜。満月。再びカレイチを歩く。シルバーに輝く満月。土曜日の活気が幻だったかのように、この日は自分の靴音だけが響く。日曜日の夜は、これでいい、と思う。便利すぎる日曜日となにもない日曜日。どちらが豊かなんだろう。シャンパーニュ地方の村でステイした日曜日にも感じたこと。日曜日の夜は、静かでいい。だから土曜の夜が物語になる。
saturdaynight all right fightingの土曜から、日曜日のI Guess that's why they call it the bluceへ。旧市街からタクシーで地中海沿いをホテルに戻る深夜0時に、エルトン・ジョンのピアノが響いた。


Kaleici, afternoon

アンタルヤの観光名所は旧市街カレイチ。新市街から港へ。急な坂、ゆるやかな坂、断崖の階段。地中海を望む雄大なランドスケープと、小さな観光船がひしめく港に、小さな石畳の路地。プチホテルの中庭のレストランと道に楽しそうに並べられたレストランの席。お土産物屋とふだんの生活が心地よく混在する幸せな迷宮。

視察のオフの土曜日の午後、ホテル近くからノスタルジックトラムという路面電車で15分。この場所に一人で迷い込んでみる。リゾートエリアからのカレイチの入り口であるカレカプス駅で降りる。そこは活気あふれる新市街と、旧市街のはざま。お洒落なスポーツアパレルショップや両替店を過ぎると、ケバブやムール貝の屋台市場。鼻孔をくすぐる香ばしさとBGMレベルで心地よい客引きの声を、少しだけ足を速めてすぎると、もう、幸せな迷宮に入ったことを知らせてくれる石畳に入る。ただのお土産物屋の観光化された場所、という少し斜に構えながらその坂を下りていくと…。

そこは、僕の旅の体験でいえば、シドニーにも似た明るさと、シチリアの裏通りの可愛らしい猥雑さがあった。素直で人懐っこい笑顔、静かな時間、裏通りの日蔭と海が見える坂の太陽。自由闊達だけれども密やか。露店の兄さん、おじさんたちと会話をしているうちに、自分の頭の中にあった地図はとっくに失って、ただただ、迷い込むことを楽しんだ(この日の夜、メンバーで集まっての夕食にちょうど良いレストランを探すという目的はあったけれど)。

そして港に降りる断崖の上のレストランから地中海を眺める。もちろんチョイスしたのはトルコの白ワイン。少しだけここまでのアンタルヤでの仕事を振り返り、ノートにペンを泳がせる。そして港に降りる。堤防の突端から太陽が西に傾き始めた地中海を眺める。港に振りかえれば雰囲気のよさそうなレストラン。陽気なマネジャー(ビリー・ジョエルのライヴと音楽を長く支えるサックスプレイヤーのマーカス・リベラとジョージ・クルーニーを足して2で割って…という自分の脳内だけで理解できるルックスを思い浮かべる)は、親切にもキッチンの中にまで案内してくれる。

「キレイなキッチンでしょ? トイレもこのあたりでは一番クリーンにしているつもり。夕方からは寒くなるからガラスは閉められるよ。でも景色は最高なままだよ!」
来るとしたら、もしかしたら、もしかしたら、と何度もエクスキューズ。それを満面の笑顔と少し早口の英語で受けとめ名刺に携帯番号を書く(僕の中ではあくまでも)マーク&ジョージなマネジャーと握手をして、ゆっくりとゆっくりと、メンバーたちとの待ち合わせ場所である、カレカプス駅に戻っていく。坂を登っていくと、次第に、心地よい喧噪が戻ってきた。


In the ruins of Antalya

First, I would like to thanks to Ms. Esra Kadaifci。In spite of the busy schedule, she gave me a guide.

アンタルヤの市街から車で30分も走れば、古代ローマ時代の遺跡にあたる。アレキサンダー王からローマへ。セルジューク王朝、オスマン帝国、イスラム化の前の都市文化の時代。トルコの重層的な歴史絵巻が見える歴史遺産だ。まず訪れたのは、『アペンドス』。アンタルヤから東へ39km。ほぼ完ぺきな状態で保存されている古代劇場。小アジア最大級ともいわれる遺跡で1万5000人から2万人収容可能という、現代の東京で言えば武道館クラスの劇場になる。実際にそこに立ってみると、多少盛った数字のように思えるけれど、この急斜面にもにたすり鉢状の劇場にびっしりと、今でいうところのオールスタンディングで人々がひしめいたとすれば相当な熱気だったのだろうか。周囲には、アクロポリスの丘、競技場後。トルコの地中海沿岸は、ローマやギリシャの歴史が、間近にある。

次に訪れたペルゲは、街そのものがそのまま遺跡になった壮大な遺跡だ。原始キリスト教の布教の場としても重要な土地だったらしく、マーケット跡、以前に書いたハマム的入浴施設、神殿、競技場、劇場などが点在し、おそらくは多くの人々が往来したであろうプロムナードがそれらをつないでいる。陽が傾きかけた時間ということもあり、より神秘的な光景。地震なのか戦乱なのか、それとも自然なのか、そのあたりはわからないが、朽ちてしまったり崩落してしまった建物の様子は少し物悲しいものはあるけれど、それでも、この場所で2400年前の営みの何かが伝わってきたような気もする、その不思議。ダイナミックな発展と癒しのリゾートでもあるアンタルヤの、クロニクル。ただの観光ツアーではなく、この場所でも物思いにふける時間をもらったことに感謝。


Location of Antalya, a happy food part1

健康。健やかに生きる上では心身ともに幸福でなければいけない。ということは当然だが、その上ではやはり、食文化というのはとても重要なものだ。幸せに豊かに。毎日のテーブルをどう幸せにしていくか。この点でアンタルヤは実に、豊かだった。

知られているか知られていないかはわからないのだが、トルコは食材天国でもある。豊かな太陽から生まれる野菜、果物、三方を違った性質を持つ海に囲まれたことによる豊富で多様な魚介、ナッツや源流であるヨーグルト、チーズなどの乳製品、羊を中心とする肉など、世界でも有数の食材の多様さと量を誇る国なのだ。その食材から生まれる宮廷から庶民レベルまでの多様な料理は魅力的だ。

ホテルの朝食。さまざまなリゾートでの朝食ブッフェは経験したが、この地ではとにかく地の物がうまい。野菜は濃い、瑞々しいという日本的なうまさではなく、素朴。しかし、その素朴さがそのまま旨みになっている。ドレッシングはシンプルにオリーブオイルと赤ワインビネガーがあるだけ。そこに多彩なハーブを乗せて食べれば、野趣あふれるシンプルサラダの出来上がり。果物、ナッツ、チーズが豊富に並ぶ中で、目を引くのはオリーブ。朝から10種類以上のオリーブを楽しめる。ワインが欲しくなる気分をグッと抑えて飲むのはトルコ流のチャイ。

トルコといえばケバブ。それは一面では間違っていはいないのだが、ケバブも豊富に種類がある。どこの店も魅力的。鼻孔をくすぐりまくる誘惑。絶品だったのは街場の定食屋。羊のミートボールと訳せばよいのか、「izgara kofte」ウズガラキョフテというグリル料理は、印象的だった。

The restaurant of the town, meatballs sheep excellent

海の幸も豊かだ。旧市街カレイチのポートサイドレストランでは、実にシンプルな焼き魚。臭みは全くなく、ほんわりとしたやわらかい肉質で、トルコのやさしい口当たりの白ワインや、トルコを代表するビールであるエフェスのモルトタイプがとてもいい相性だった。

The restaurant with views of the harbor of Kaleici, I eat grilled fish.

多彩で豊富な食材と料理の数々。しかし、この地の食の魅力はこれだけではない。こうした食材と料理がもたらすものは、豊かで幸せなテーブルだ。アンタルヤのアクティヴィティのハイライトでもある旧市街カレイチの土曜の夜。そこには、素晴らしい食文化があった。日本のどこであっても、そして世界中での経験を多く持つ日本人にとっても、稀有でエキゾチックで、しかし、どこか落ち着く場所。part2で。


トルコ・アンタルヤ「浴場は社交場」

今回の旅の目的の一つはトルコに脈々と受け継がれるスパ文化にリサーチ。しかし、最新と自然の組み合わせなど、古(いにしえ)と最先端の融合から、世界中で素晴らしいスパはある。僕自身も結構好きで、日本を含め、世界のいろいろなスパを経験したので、トルコに対してはそれほどの期待をしていなかったというのが本音。

しかし、これがあった。トルコの伝統的スパといえば『ハマム』。蒸し風呂で、いわゆる三助さんがいて、ゴシゴシ垢すりに泡マッサージという定番のスパ。スパというよりもむしろ日本の江戸時代の銭湯に近い(江戸の銭湯は蒸し風呂)のか。スパという言葉を狭義でいうならば、今のカタチなのだろうけれども、広義で言うならば、お風呂的なものを中心とした癒しと交流の場所だろう。どこかハマムと銭湯は、そこが、かぶる。

街場の伝統的なハマムから、最新のゴルフリゾートの極上のハマムまでいろいろ視察、体験をさせてもらったが、単に美容、健康の施設というのではなく、やはりそこには社交であり、人間の匂いがする。昔、女性のハマムは、周囲のおばさま方が若い娘の嫁入り前のカラダのチェックをする場所だった、なんて話も聞いた。ホテルのハマムではでかい大理石のベッドに男2人寝そべって、あーでもない、こーでもないと話す地元の男性がいた。あったまってキレイになった身体でリラクゼーションルームに行けば、チャイでも水でもひっかけながら、また長話が続く。銭湯だ、日本の銭湯だ。

この文化は、古代にさかのぼる。アンタルヤ近郊にはごろごろと…と言っては大げさかもしれないが、ローマ帝国時代の遺跡に出くわす。その中のひとつ、ペルゲの遺跡。アルテミス神殿と伝えられる建造物などの中にあって、浴場跡もあった。朽ち果てたような遺跡なのだが、不思議に人の活気を感じる。スピリチュアル的な体験といえばそれまでなのだけれど、広い社交場の様なスペースを取り巻く沢山のバス。それはハマムというよりはローマ風呂のように水が満ち足りていたようだが、いずれにしてもここが交流の場であり、戦から、船から、そして交易からかえって来たり集ったり、明日にはまた旅だったり。そうした人たちの陽気でせつなくて、でも楽しくて、という思いがまだ残っているように感じた。ガイドを務めてくれた地元の女性・エスラさんも「私はここにいると不思議に落ち着くんです」と言う。水に流す、という言葉。日本の銭湯やこのハマム、トルコの浴場文化には同じ何かが流れているようにも思う。
トルコのビジネスパーソンと日本のビジネスパーソンが、トルコではハマムで、日本では銭湯で、裸の付き合いをしたら何が生まれるか…と、この遺跡での妄想。